命のリレー
2月1日から5日までの長い日々を記録しておくことにします。楽しい話ではないのでそこんとこ宜しくお願いします。
1日は口頭試問でした。
その口頭試問が10時40分からスタートしました。
もうね、ボロボロで・・
11時25分口頭試問終了。5分オーバーで終わりました。
もうねボロボロでした。研究室に帰ると、次の口頭試問を受ける人がいたので愚痴を聞いてもらってました。
「とりあえず終わったし、ヨーグルト(チーモン白井ソロライブ)見に行って気分転換しよう!」
そう思い、今日泊まるホテルをネットで色々見ていました。(学生寮のため門限を越えたら外泊の必要があるため)
しかし、受験シーズンなためどこも満室。
あーどうしよう・・ヨーグルト見に行けない・・・
その時点でたしか12時15分くらい。
メールを見ると母から「すぐれんらくして」と入っていました。
電話をしても出ない・・あ、病院にいる。
実は私のひいおばあちゃんが入院していました。いつどうなるかわからない状態で・・
その10分後位に電話がありました。
泣きながら「ひいおばあちゃん、待っててくれたよ」と。
この時点で亡くなったんだ、と思いました。
「じゃあ、いったん寮に戻って電話を掛けなおすね」といい、寮に戻りました。
寮に戻ったのが14時。実はこの時点で、口頭試問の緊張もあって一睡をしていませんでした。正直、体力は限界。
もう一度電話をかけます。
母「今ね、おばあちゃんなんとか頑張ってるから」
亡くなっていなかった・・・今なら間に合うじゃないか・・どうしよう・・でも間に合わなかったら・・
不謹慎だけど、おばあちゃんならなんとかなるんじゃないか、ヨーグルトに行けるんじゃないか・・そんなことまで思ってしまってる自分がいました。
母は私が一睡もしていないのを知っていたので、ちょっと休んでからでもいい、なんなら明日来てもいい(これは理由があるんですが)ということをいってくれました。
悩みました。
2時40分くらい・・・やっぱり行こう!行かなきゃ後悔する!そう思い、寮を出、故郷に向かいました。
新幹線は1時間待ちでした。
1時間後の新幹線に乗り、故郷に向かいます。
約2時間後地元の駅に着きました。
5時ころでしょうか。
もうひいおばあちゃんは亡くなったあとでした。96歳でした。
16時20分だったそうです。
14時に東京にいる時点で間に合いませんでした。でも、間に合わなくても向かってよかったと思っています。
そのあと祖母の家に帰り、ひいおばあちゃんを見ました。とてもおだやかな顔をしていました。
いっぱい人がいたな・・・
夜の10時くらいに自宅にかえりました。
2月2日、3日はなにもなくバイトもあったのでとりあえず東京に戻りました。母は2日も3日も顔を見に行ったみたいです。
。
4日が納棺。また故郷に戻ります。
花嫁衣装のような格好、お化粧をしているひいおばあちゃんが棺に入りました。
いつも身につけてたスカーフや帽子、デイサービスセンターからもいただいタオル、なども棺の中に入りました。
5日が告別式、そのまま火葬。
告別式は600人のひとに来ていただきました。最後にお花を棺の中に入れます。
みんな泣いていました。祖父(ひいおばあちゃんの長男)はひいおばあちゃんのおでこに手をあてていました。
他にも手を握っていました。
そのまま火葬場に向かい骨になってしまいました。
予定よりも早く火が止まってしまったそうです。でも骨はしっかりしていました。
その骨を伯父がもって祖母宅にひいおばあちゃんは無言の帰宅をしました。
これが長い1週間のだいたいの出来事です。
実は亡くなる2日前ころ、不思議な経験をしました。(信じるひとだけでいいですが)
朝寝ていると、私の手をポンポンと2回たたくのです。それで目が覚めました。
たぶん、ひいおばあちゃんが来てくれたんでしょうね。私は間に合わないと知っていたから。
母にひいおばちゃんが亡くなる前にこの話をしたら、母は「もういっちゃうんだろうな」と悟ったそうです。と同時に、きっと間に合わないから明日でもいいよ、といったんだそうです。
私はそこまで深く考えていませんでしたが・・・
母はひいおばあちゃんの耳元で「2月1日まで待っててね」とずっといっていたそうです。
ひいおばあちゃんは、横須賀から自分の娘が来るのを待っていてみたいです。
もうすぐ亡くなってもおかしくない状態なのに、4時間その状態で待っていた・その自分の娘が来た瞬間、一気に心拍数が下がったそうです。
しかも、わたしの口頭試問が終わったのが11時25分。危篤状態になったのが11時30分。
もうね・・試験が終わるのを待っててくれたとしか思えません。
ひいおばあちゃんはすごい人でした。
夫(ひいおじいちゃん)を戦争で亡くし、4人の子どもを女手ひとつで育て上げました。
それは大変なことだったと思います。
でもあとから生まれた世代(母や私など)には、一切愚痴もいいませんでしたし、恩を求めるようなこともしませんでした。
「おばあさんはみんながしあわせならそれでいい」「おばあさんの周りには悪い子はいない、みんないい子」
「いっとういい時だよ。なんでも好きなことをやらなきゃだめだよ」
そういうことを常日頃私には言っていました。
最後に会話をかわしたのは、9月30日内定式の前日でした。
何をかわしたのか覚えてないんですよね・・・
「おばあちゃんね、入社式に姿また見てね」
そんなことをいった気がする。
それになんて答えたかは、覚えていません。残念ながら・・
そのあと12月28日いったん危篤。でもこのときは持ち直しました。
でも、最後に向けての心や様々な準備の期間を与えてくれたんだと思います。喪服その時はありませんでしたし・・・
そして2月1日に永眠しました。
考えたら、ひいおばあちゃんがいなかったら祖父も、母も、私も存在してないんですよね。
そう考えたら私にとったら命の源といってもいいかもしれません。
リレーにたとえたら、ずっとバトンをもって先頭をひいおばあtyんは2月1日まで走ってきてくれました。
バトンは今祖父母にわたりました。祖父母が先頭を走っています。
そして今後もバトンは渡り続けるでしょう。命のリレーは一生続くんだと・・・
誰かが死に、誰かが生まれて・・・
ひいおばあちゃん、96年間おつかれさまでした、ゆっくり身体を休めてください。
私はあなたがつけてくれた名前とともにこれからも生きていきます。そっと見守っててください。